「ライブで朗読を聴くとき、その世界はどこに展開されるのがいいか」ということについて、あくまでも僕の理想の一つとして提示してみる。
ライブの朗読で、よく目をつぶって聴いている人がいる。音を繊細に聴いたり温度や匂いを感じたいのであればそれが効果的だと思う。しかし視覚については別だ。目を閉じるとそのイメージは頭の中かその周辺に出来るだろう。そして大概、頭が絵を認識していることになるのではないか。それでは家でラジオ番組やCDを聴いているのと大差なく、ライブ朗読の意義が薄れる。やはりライブでは作品と読み手が作り出す世界を”体験”して欲しい。それは頭で認識するのとは大きく違うのではないかと思っている。では、体験するとはどういうことか。
それは舞台上に世界が展開されているのが読み手の姿と二重写しになって見えるということだ。読み手が登場人物や語り手を演じていてその人物に見えるというのではない。似ていなくていいのだ。例えるなら恋愛だ。恋をしていると、実体は不細工な女なのに世界で一番美しい女性に見えたりする。そのような状態だ。目はあきらかに実体を見ている。しかし実感としてあるのは自分の都合の良いようにイメージされたもの。しかも自覚がない。鑑賞するのにこんな都合のいいことはない。
ところで、落語を生で聴くときはどうしているだろう。僕は今まで意識したことがなかったが、考えてみると「二重写し」で観ているんだなと思う。目の前の噺家はどう見たってご隠居さんや花魁には見えない。だが僕は目の前にそれを見ている。では、他の客はどうやって聴いているのか。眼を瞑って聴いている客は滅多に見掛けない。少なくとも朗読会よりは圧倒的に少ない。これは表現の種類の違いもあるが、面白さの違いが大きいのではないだろうか。舞台上に惹きつけられるか否かの問題。
上演が始まっていきなり「二重写し」を体験できることは稀だろう。最初は演者が喋っている、読んでいる、語っている。それが上手かったり面白かったりするとどんどん惹きつけられて行って、いつの間にか実体と違うものを舞台上に見ている。そういうことなのだろう。
つまりは演者次第。演者は、観客にどう聴いてほしいのか、観てほしいのか、体験してほしいのかを想像し、そのためにはどういった演り方がいいのかを考え、それを実現しなければいけないのだ。
結局言いたいのは、僕の朗読を聴きに来られる方は目を瞑らずに舞台を見てねということだ。実体と違う何かが現れるように頑張って演るから、それを楽しみにして鑑賞してねということだ。目を瞑ったほうが楽しめるというのであればそれは致し方ないが。