「漱石『夢十夜』 〜十人で語る十夜の夢〜」が無事終了した。僕にとって久しぶりの朗読公演だったので鈍っている部分もあった。演出は、全十話の統一感も含めて正攻法でありながらもずいぶん考えられていたように思うが、それでも公演全体のあり方や演出についての厳しい意見が挙がっていた。
簡単に言うと、公演としてしっかり楽しめるものにすべきという意見だ。主催者の意図と違ったものを求める観客はいる。そういうのを全て酌んでいるわけにもいかない。しかし朗読公演全般を考えるとき、真剣に向き合わなければいけない意見ではないかと僕は思った。
出演者のファンや朗読好き以外の一般の方に足を運んで頂きたいと考えるなら、楽しんで頂ける内容、言ってしまえば高い娯楽性が必要だろう。作品そのものを素のままに伝えたいなんて言っていられない。あくまでも作品は素材として新たなパフォーマンスを創造するつもりでやらないと実現は難しいかもしれない。
考えてみると僕も演出で惹きつけるということをやってこなかったわけではない。雑談をしながら紙切りを始めた「片腕」。新聞記事を読みながら記事の一つとして語り始めた「羅生門」。当時話題の伊達直人のマクラから本題につなげた「もう半分」。扇子を駆使してオチまで付けた「銀簪」。蝋燭を目の前にして語った「死体蝋燭」。夫婦間の読み聞かせ風に読んだ「門のある家」。これらすべてに、素で読んだとき以上の手応えがあった。
僕の場合は朗読の読み自体のスタイルはあまり変えていないが、読みのスタイルをガラリと変えるのも演出の一つの手段だろう。
今後は“面白い”に徹してやっていく。できれば“凄い”と言わせたい。実は僕はスペクタクルをやりたいとずっと思っていた。何億円も掛けてCGを駆使した娯楽映画のようなスケールの大きな物語を声と言葉と想像の力で体験できたら素晴らしいではないか。長時間のパフォーマンスに観ている側が耐えられるのはこれしかないのではないかとも思う。
さて、ここまではライブの話だが、スタジオ(マイクを前にした録音、放送、配信)は全く別物として考えるべきだと思う。こちらは作品の手触り、文学の匂いをそのまま伝えることを目標にしたい。作者が選び抜いた言葉や文章を色をつけずに伝える。活字の音声化でいいと僕は思っている。活字に徹するその中にどうしても顕れてしまう揺れ。それが朗読者の個性であって、個性なんてその程度でいい。
そしてライブとの大きな違いは、聴衆ではなく目の前にいるであろう一人の聴き手に伝えるということ。
目指す方向は固まったが、それよりも大事なのは読み続けることだ。朗読屋を名乗っていても読んでいないときは朗読屋ではない。