ぼくは断言する。
「感情は湧くものであって込めるものではない」
感情というのは多くの表現活動に求められているようだ。感情を表現するための手段として表現者が感情を“込める”ことが大事なことであるかのような風潮がある。単に言い回しの違いなのかもしれないが、勘違いであったなら厄介だと思い、突っ込んでみることにした。
なぜ感情を“込める”ことがいけないのか。
感情を込めて(込めたつもりで)何かを表現すると何らかの実感は得られると思う。何かは籠っているのだろう。それが感情でないとすれば一体何なのか。おそらくそれは「意思」である。もしくは単なる力み。感情と意思とどう違うのか。どう違うったって明らかに違うのだ。役者仲間でも同じようなものだと思っている人が意外と多かった。
意思は能動的である。意思は込めることができる。たぶん力んでも伝わる。感情は受動的である。感情は力んだら縮こまる。受けるためには受けられる状態というものがあるのだ。受けやすく、湧きやすく、動きやすい状態。弛緩していていろいろな部分が開いている状態。怒りなんかも弛緩している方が湧きやすいのではないかと思う。よく、怒りに震えたり拳を握りしめたりすることがあるが、それは怒りが湧いた後の反応なのだろう。
つまり、多くの場合、感情を込めようとすることが逆効果なのだ。作為、色気、自意識、伝えようという思いが身体や心や頭を固くする。感情の代りに意思が籠っていればいい。しかし、感情を込めようとして力むばかりで意思すら籠っていないなんていう状態は最悪だ。
たとえ感情が乗っかっていなくても意思の籠った表現ならば効果がある。ぼくは、意思だけでも聞き手の心を動かすことが出来ると思う。演劇でも最初から最後まで力の籠った演技で感動を与えられる場合がある。送り手の意思によって受け手の感情を動かすことも可能なのだろう。そもそも、演劇においてリアルに感情を沸き立たせるという手法は近代以降の風潮、流行なのではないかと思う。感情というのは必ずしも演者の状態として表わさなくてもテキストに書かれているはずなのだから。
ぼくの考える一つの理想。リラックスした状態で常にいろいろなものを受けつつ、しっかりと意思を伝えていく。ときには意思を排除してぽつりと言葉を前に置く。その結果、何らかの感情が湧いてきてそれが意思に乗っかっていく。感情の湧くきっかけは相手役の言葉や仕草であったり、自分の発する言葉や音声であったり、音楽などの演出効果だったり、空間の作る雰囲気だったり。いい状態でさえいられれば何でもありだ。