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雑筆

[雑筆 - 芝居] ブツ切れの台詞

ドラマを観ているとブツ切れに発せられる台詞を耳にする。たとえばこんな調子。(○はポーズ)
「俺は○○どうしようもない○男なんです○○○○一緒にいると○○きっと○君を○不幸にする」
どうだろう。心当たりがあるんじゃないだろうか。たいがい深刻な台詞なんだけど、結構やってるんですわ、あちこちで。僕もたまにやってしまいます。そんで、今まではあまり気にならなかったのに急に気になりだした私。ただ漠然とした演技の違和感だったのが、ブツ切れから生まれた隙間が原因らしいと気づいて、それ以来気になって仕方がないのだ。

僕がこの記事で言いたいのは「隙間を無くして違和感のない生きた台詞にしよう」ということだ。隙間が絶対ダメだというわけではないが、ドラマなどを観ているかぎりほぼ総てダメなように感じる。だから対策しないとまずいんじゃないかと。まずは自分がやらないように、そして多くの俳優にとっての注意点として留めておくべきじゃないかと、そう考えるのだ。

じゃあ、対策しましょうか、どうアプローチしましょうかという話しなんだけど、ちょっと整理する。問題はつまりこうだ。「ダメと感じる台詞には根本的な原因があって、表に見える現象としての隙間があり、結果として違和感になる」 単純化しすぎだろうか。とにかく、これをベースに考えてみる。

まず対症療法として、表に見える現象を見えなくする、つまり「隙間を詰めて喋る」ということ。これだけでも違和感はかなり消えるんじゃないかと思う。

でも、やはりいい芝居をしようと思うなら根本的な原因と対策を考えなければならない。いくつか挙げてみる。
  1. 脚本に打たれた読点をそのまま隙間にしている
    読点は眼で読む際に意味を取り違えないためのものであって間隔を空けろという指示ではない。基本は無視すべきだろう。
  2. 台詞を理解していない。肚に入っていない。
    台詞を思い出しながら喋っていたり頭でコントロールしていて、自然な生理で言葉が出て来ないケース。テレビのちょい役などではその場で台詞を与えられることも多いから、すぐに納得いく台詞にするのは難しい。でも役者がなんとか頑張るしかない。
  3. 時間をかけて喋ることによりしっかり聞かせたい
    聞かせる台詞というのも確かにあるのだが、隙間を空ける以外の方法で強調することもできる。例えば、言葉そのものをゆっくり発語するとか、言葉をしっかり立てて伝わりやすくするとか。
  4. 脚本に書かれた台詞が良くない
    意味を伝えるのに最適な文構造になっていない台詞を書かれると役者は困る。日常のリアリティーという面では論理的・心理的・生理的に合わない文というのはつらい。自然な流れを作れなくなって、役者はブツ切りのパーツを投げ入れるしかなくなるのかもしれない。
ちょっと注意して頂きたいのだが、ここで問題にしたいのはあくまでも写実的な演技をしようと思った場合の違和感である。そうでない場合は上記のうち下2項目は狙いがあるなら許容されるだろう。文学的な効果を狙った台詞、詩的な台詞として聞かせたいのなら役者の身体がそれに合せるべきかもしれない。

まだまだ続くよ。
今度は、なぜ違和感を感じるかについて考えてみたい。ここに一つの前提がある。
一連の言葉というのは一つの意志でなされる。その時、息の流れも連続性を保っている。
人は通常、一纏まりの発言をするとき、一本の通った意志で発言するのではないか。そこには、いちいち間隔を置いて喋る理由はない。例えるなら、列車に乗って目的地に行くのにわざわざ途中下車する者はいないということ。途中下車するのなら理由があるはず。「あたし、また間違えて乗っちゃったかしら」と心配になったとか、途中の駅においしい蕎麦屋があったとか。

いちばん問題なのは、理由が見えないことなのかもしれない。あるいは見えてしまうこと。言葉が途切れる理由とは、こんなことを言ったら気を悪くするんじゃないかと思って様子を覗いながら喋るとか、言いたいことが纏まっていなくて考えながら喋るとか、強い怒りで頭がパニック状態で言語のコントロールを失っている、など。そしてその状態を役者の肉体に作り、結果として隙間が空くのであれば、観ていて違和感はないのだろう。そういう時の隙間は、感情や生理的な状態変化で埋まった生きた「間」になるのだと思う。逆に、ここで切ろうと頭で考えて作った隙間や、役者の不安からつい切ってしまった隙間は、空っぽの「死に間」になるに違いない。

そして、更に僕が思うのは、訳があって隙間が空いてしまう場合にも、息をブツリと切ってしまうのではなく、なんというか息を「引っ張る」ということをするのが自然なのではないかということ。結果、語尾を伸ばしたり、「あー」とか「うー」とか「そのー」とか言ってしまうことがよくある。そういう息の連続性。テンションの持続。音は途切れても内面で仕事をしている状態。それならば問題ない。


と、この辺でまとめに入ろうかと思ったが、やはり無視できない問題がある。役者が文をついチョン切ってしまいたくなるときの心理的な理由である。

文には論理構造があり、それを文法に則って表わす。日本語を音にする場合、音の高さの変化つまりイントネーションによって論理構造を伝える。例えば修飾する語とされる語の関係において修飾する語を高くする。自然発生する会話ではそれを無意識にやっている。ところが、与えられた文を音声化する場合、論理を正しく把握できていないと正しいイントネーションを選択できずに困ってしまう。日常ではあまり喋らない文体や長い文では特にそういうことが起こる。そうして役者がイントネーションに迷いが生じたとき、つい苦し紛れに文を途中で切ってイントネーションの操作をリセットしようとしてしまうんじゃないだろうか。僕が実際に見た例では、文を切った後、高い音からスタートしていた。文を切る度に出だしの音に戻るのである。
同様にプロミネンスのごまかしもありそうだ。プロミネンスとは文の中で一番重要な言葉を強調するというアレだ。どの言葉が重要か判断に困った挙げ句、細切れにして並列に並べてしまうのではないか。
まあ、考えようによっては上手いやり方とも言える。相応しくないイントネーションやプロミネンスの台詞を発してしまう、というリスクを回避する手段としてはね。

相応しくないイントネーションといえば典型がある。一つは棒読み、もう一つは妙な抑揚。下手な役者の悩みの種であるこれら二つの原因がこんなところにあったんじゃないかと、この記事を書いていて初めて気がついた。論理的な理解不足、それによるいい加減なイントネーションやプロミネンス。違ってるかもしれないけど。

結局、台詞を文の論理までちゃんと理解して喋りましょうねと言うことになる。あたり前の話だ。ブツ切れ現象に着目し、気づき、理解不足を疑い、足りなければ正す。それだけのことなのかもしれないな。

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こうして論じては見たものの、この考えが使い物になるのかどうかを如何にして検証すればいいのか。僕がいい芝居をできるようになるしかないのだろう。


おわり

Copyright© 2012 KAWASAKI Takuya