「怪奇幻想朗読百物語(あやしおそろしひゃくがたり) 第七夜」、無事終了しました。
第六夜終了後、解説みたいな記事を書いたが、第七夜に来て頂いたお客様から今回のも期待していると言われたのでまた書くことにする。
★観ていない方のための簡単な説明
あらかじめ、舞台にテーブルと二脚の椅子がセットされていて、自然な佇まいの男と女(夫婦の役?)がなんとなく登場してコーヒーを飲みながら自分が興味を持った作品を読み聞かせるというかたち。たまに聞き役のリアクションもあった。
今回のテーマは「“読む”という朗読の原点に帰る」というもの。先にテーマありきではない。どうしようかと考えていくとそうなっただけのこと。前回の語り+一人芝居+落語というスタイルは使えなかった。使えたとしても、似たようなことはしたくなかった。まず、作品の世界があっさりしていると感じた。これを躍動感や生々しさで伝えるのは無理がある。また、文体に味があるわけではないので、文体を活かす語り口というものも必要なかった。そうすると余計なことをしないでシンプルに読み、聞き手の中で想像してもらうしかないと思った。
しかし、それがいちばん難しい。最近ぼくは、ライブの朗読においては、ただ読む――語るでも演ずるでもない正当派朗読とでも言おうか――というのでは聞き手を楽しませることは出来ないと結論づけた。なので演出なり何なりが必要なのだと考えた。
もう一つ、ライブ朗読における朗読者の存在は如何なるものかということも最近はよく考えている。役者だからなのかもしれないが、舞台上では生身の自分でいてはいけないと思っている。単なる思い込みなのかもしれない。その辺はいずれ論ずることとして、今回は自分自身がただ読むということを避けた。
では、誰が読むのか。考えたのは、ぼくではない架空の誰かだ。“読む”というテーマを理解して頂きたいという考えもあった。なので、「読んでいるんだよ」ということを積極的に提示しようとした。結果、「夫婦と思われる架空の誰かが自分と相手の理解のために本を読んでいる」という枠組みを作ることにした。
更に、上手く読まないという枷も設けた。朗読会などで、訓練されていない読み手の拙い朗読が非常によく伝わることがある。何がどう作用しているのかは分らないが、とにかく「上手く読もう」という意識を持たないよう心掛けた。普通の夫婦を演じているのだから上手くては不自然だし。
以上のように、きれいにとかたくさん伝えようとか欲を出さずに(少なくともそう見えるように)ただ読むことに徹するとどうなるかを試してみた朗読だった。結果、それがスタイルの面白さ抜きに、どういう違いになったのか、作品そのものの伝わりやすさや作品世界の広がりやすさにどう影響したのかははっきりとは分らない。でも、何らかの手応えは感じられた気がする。
結局、演じていた訳で、“ただ読む”ということは厳密には出来なかったのだが……。