一昨日、朗読公演「服部和彦 語りと音楽の世界 Part II」が終了した。
お客様の反応やお言葉を聞くとどうやら成功したと言えるようだ。いつものことだが、いろいろなものに助けて頂いた結果だ。ホールという特別な空間。真っ直ぐな眼で見つめ、張り詰めた空気を作って下さるお客様。そして今回はマイクにも助けられた。
実のところ、マイクはできれば使いたくない。生の声がエネルギーと共に後ろのお客様にまで届いてこそホールで朗読をする意味がある。マイクを使ったとしてもやはりエネルギーは届いているべきだし、音だけを考えても舞台上の朗読者本人から声が発せられていると感じることが重要である。それは音響の技術で支えられるべきだ。それは多分、スピーカーの位置や自然に聴こえる音のチューニングなのだと思う。残念ながら、今回はスピーカーが舞台の上部から吊られており、朗読者の存在と独立して声が聴こえてきたのではないかと心配だった。実際はどうだったのだろうか。
そんなマイクだったが、そいつに助けられた。もともと、演奏にかき消されないためにマイクはどうしても必用だったのだ。歌ならば負けない声量で歌うことも可能だ。それくらいの声量がなくては困る。朗読でも、常にエネルギッシュな大きな声で表現するような作品だったら勝てるかもしれない。だが、文学作品で地の文を力一杯表現するようなものはそんなにないのではと思う。「寒い母」も力一杯の作品ではなかった。それでもできるだけマイクの力に頼らず生の声を多く届けようと考えたのだが、力みにつながったようでリハーサルでも調子が出なかった。なので、本番では弱めの声もしっかり拾ってもらって空間に響いているのを確認しながら読んだ。すると、とても自由になれた気がした。
力みといえば、今回はこれに悩まされた。元を突き詰めれば作品との相性なのかもしれない。「寒い母」は物語は魅力的なのだが、文章は僕にとっては読みにくかった。文体の味や力を借りて読むこともできなかった。平易な文だと誤魔化しがきかないということなのか。100回読んでも文が身体に馴染まない。違和感が息を詰まらせ、身体の緊張を高め、声の響きを悪くしていた。本当は語りに近い読みをしたかったのだが、丁寧に読むくらいしかできなかった。語るというのは身体がしっかり納得していなければできないと思うのだ。
息を詰まらせたのは読む速さにも原因がある。もともと僕は読みが速くなる癖がある。言葉がほとんど身体に付いていないせいもあって文をスラスラと追っかける感じの読みになり、事前のリハーサルでは作曲家の先生から速さを指摘された。ゆっくり読むように心掛けたが、やはり馴染まない速さで読もうとすると息の流れがスムーズにいかなくなる。
当日のリハーサルでもそんな状態が続いていた。本番までに結構時間があったのでいろいろと調整でき、状態は良くなった。それでも、舞台に出るまで分からなかった。どれだけリラックスし、自然に息を流せるかにかかっていた。いざ出てみると、お客様の視線は動揺することなく受けられた。声を出して、自分の声が心地よく響いていることが確認できて安心した。あとは、気を抜かないように丁寧に読むこと。そういえば、今回は結構、感情を込めてしまった。物語の世界が今ひとつ入っていないので自然に湧いてくるものが少なかったのだ。全体的にいつもよりかなり作為的であったように思う。その辺もお客様がどう感じたのか気に掛る。
助けられたと言えば、他にも作品の魅力とか音楽とか、そんなものにも助けられた舞台だった。それともう一つ、神様に助けて頂いたのだと思っている。本番にだけ舞台に来て下さる芸能の神様。僕はまだ、自分の身体に神様が降りて来たという感覚を持ったことはない。そんな事はなくても構わない。舞台上にいて下さるだけでもありがたいのだ。
その神様は新宿にいる。花園神社の敷地内に小さな祠を構えている。今のところ僕は、心から信じることが出来てはいない。でも、はじめは形だけでもいいと思う。それと、僕は浮気はしないようにしている。観光で神社やお寺に行くことがあっても、願い事はしない。手当たり次第に願をかけるというのは虫が好すぎる気がするのだ。
当日、会場へ向う途中にお参りをした。周りの騒音やら、気持の乱れやらで心を落ち着けて手を合わせることはできなかったが、形だけでもと思いすぐに済ませた。そして昨日、はじめてお礼に伺った。
都合のいい時だけ信心するのではなく、日々、神様に見られていると思って稽古に励まねばと思うのだった。