「河崎卓也読宴会vol.1b」のプログラムより
---
小島政二郎(こじままさじろう)の書いた「眼中の人」という自伝的小説に芥川龍之介と菊池寛のことが書かれている。彼は二人の共通の友人だったが、芥川と菊池を対照的な人物として書いている。以下、飛び飛びに引用しつつ、纏めてみる。
芥川は、話題は豊富で座談はうまく、舌を巻くほどの博識、徹底した理論の鋭さを持っている。そんな芥川に感銘を受けた小島は日曜と言えば来客の絶えない芥川の書斎へ遊びに行った。彼は芥川の言葉の端々に東京の下町ッ子らしい共通の匂いを嗅いだ。
また、小島は文学と文章とは不可分のものと考えていた。文学における文章の位置を非常に高く考えていた。どうしたら美しい文章が書けるんだろうかとそればかり考えていた。そんな彼にとって、芥川の洗練された典雅な文章は強く引きつけるものであった。
ところが、菊池寛は違った。小島にとって彼は、思ったことをズバズバ言う、押しの強いガムシャラな田舎者だった。何よりも彼の書く小説を軽蔑していた。三十枚位の小説の中に「しかし」という意味の「が」を四十七も平気で使っているような文章。芸術的な描写には無頓着な説明の多い文章。冒頭の「旱炎な日が続いた」というような文字の使いかたさえ気に入らなかった。
しかし、小島は菊池寛を認めざるを得なくなる。彼の作品を“軽蔑するために”読んで行くうちにぐんぐんと引き込まれていった。芥川の小説は仮象の世界を形づくって色彩豊かに目の前に浮んでいたが、菊池の小説の世界は目の前には浮ばずに生々しくすぐ人生の隣に並んでいた。この生々しさに小島は強く引き付けられた。文章の粗雑さ、技巧の粗雑さ、彼の嫌いなそうしたきめの荒さも、この「生々しさ」の魅力のうちに消えてしまっていた。こうして、小島は悔しがりながらも菊池寛の小説の愛読者になるのである。
さらに小島は気付く。菊池寛が裸身(はだかみ)で戦ってきた生活こそが彼の小説の題材なのだと。それに比べてシキタリに縛られて平穏無事な生活をしている自分は、だから小説が書けないのだと。小島は菊池の小説ばかりでなく、彼の人間に尊敬の念を覚え始めるのだった。
僕がなぜこの話を紹介したかというと、僕も小島政二郎に近い思いを持っていたからである。芥川の書く話の筋もさることながら、文章そのものが大好きなのだ。そして、「藤十郎の恋」を読むと決めながらも、菊池寛の文章に不満を感じていた。この読み難さはなんなのだと。
それで、“菊池寛 悪文”をキーワードに調べたら「眼中の人」に出会った訳である。そして、「やっぱり悪文なんだ!」と鬼の首を取ったように悦んでしまった。その悪文を読まなければならないのに……。
と同時に、僕が「藤十郎の恋」を朗読で伝えなければならないものは、文章の素晴らしさではない「生々しさ」という魅力なんだと気づかされたのだった。果たしてどこまで伝えられるのやら。